誰に聞くまでもなく、それは見ただけでわかった。というか、否が応でも違いが感じられた。
 あ? なにがって、そりゃあ……。



 ○年目の冬


 暑かったような暑くなかったような夏が過ぎ、寒い寒い冬の足音が聞こえてきた。というか、むしろもう並走しているような感じだ。
 でもきっとまた夏になったら寒かったような寒くなかったような冬だったとでも思うんだろう。季節って言うのは、そうやって変わっていく……んだと思う。
 コンビニ前の信号待ち。
 車が目の前を通り過ぎるたび、マフラーの隙間を縫うように冷たい風が首元に入ってくる。俺は自然と首をすくめ、コートのポケット入ったカイロを強く握り締める。
 周りには同じ信号待ちの客が増えていく。
 友達同士の者。
 恋人同士の者。
 そして、俺と同じように一人の者。
 参考書をじっと見つめながら信号を待っている。いや、信号を待ちながら参考書を見ている、のほうが合ってるのか。どっちにしろ、こんな寒い中で手を出して本を眺めるなんて芸当は俺には出来ないだろうけど。カバンを持つ片手すらもう感覚がない。
 吐く息が白い。
 信号が変わった。
 みな一斉に自分の吐いた息に向かって歩き出す。
 もちろん俺もその中の一人だが。
 でもやっぱ違うよなぁ。浪人と、現役はさ……。

 自分の受ける講義の教室に入ってもその感覚は無くならなかった。
 というか、この予備校の最寄り駅に着いたときからずっと感じていた。むしろ電車内でもそうだった。
 いつもより少しだけ平均年齢の下がった教室。
 そこには今までなかったような活気があった。
 やっぱ現役は違うよ、うん。若いってこういうことを言うんだろうな。
 たった一つ歳が離れているだけでこう思ってしまうのはきっとこれまでの浪人生活が荒んでいたせいなんだろう。
 受験戦争に敗れた者達は敗者で、たとえどんな大学だろうとそこに入ったものは勝者。
 いや、そんなことはない。
 苦しい浪人生活を送った者達が本当の大学生活を手に入れられる。
 そんなよくわかんない励ましの言葉を春頃に言われたような気もするが。
 まぁ、俺はどこにも受かんなかったんだからこの道しか残ってなかったんだけど。とにかく、この道を選んだの誰でもない俺自身だ。いまさら何を言ってもしょうがないだろう。
 でもやっぱり……現役っていいなぁ。
 周りを見渡して、しみじみとそう思う。
 その輝く姿を見ると思わず目を閉じてしまう。そのまま机に突っ伏すが、明るい声は依然として耳に届く。
 ……腕で耳も塞いだ。
 俺は……弱い。それともこれが受験ノイローゼとかいうやつだろうか?
 センター試験まであと僅か。ついに冬期講習も始まって現役生もたくさんいる。
 そりゃ焦んない方がおかしいだろ? 
「……あの」
 左耳から声がした。
 喧騒から逃れるために耳を塞いでいたのにそれはヤケにはっきりと響いた。
 顔を上げる。目を瞑っていたせいで視界がぼやけてる。だが視界がはっきりとする前にその声は続けた。
「中の席……いいですか?」
 ここに通いだしてからもう、何度も言われたセリフ。
 いつも通り「いいですよ」と答えてから椅子を引いた。
 まだ視界はぼやけていた。目をこする。
 ちょうどその時だった。
「ありがとうございます」
 俺はやけに明るい笑顔を見た。そして同時に悟った。
 あぁ、この娘も現役なんだな。
 と。
 その娘が席に着くと同時に講師がやってきたため、それ以上は何も考えなかった。
 机の上に置いてあったテキストを開く。
 講師の話を聞く。
 問題を解く。
 さっそくわからない問題に出くわす。
 解説を聞いてもわからない。
 …………もう、寝た。

「あ、のぉ……」
 右肩になにかが触れる感触とまたあの声。
「あ……?」
 だらしなく顔を向ける。
「すいません、また通らせてもらっていいですか?」
「あ、あぁ……ごめん」
 授業開始前と同じように椅子を引いてスペースを空ける。
 彼女が通り終えた後、ボーっと自己嫌悪。
 また寝たな、俺……。わざわざ予備校に来て、なにやってんだか。
 何気なくさっきの娘の席を見るとそこにはびっしりと書き込まれたテキスト。目を細める。
 現役なのにここまでやるなんて、相当勉強できるんだろな……。
 あー……クソ。俺も、ちょっとは気合入れるか。
 そう思って、席を立った。

 向かった先は予備校内にあるコンビニのような施設。自販機の前に立って小銭を入れる。ボタンを押すと紙コップが落ち、コーヒーが注がれる。当然ホットだ。この時期にアイスを選ぶやつなんてそうそういないだろう。
 規定の分量を注ぎ終えられたコップを持って、誰も座っていないテーブルに腰掛ける。
 他の席はほとんど埋まってるっている中、ついていた。
 ……と、思っていたのに、なんで今俺の目の前じゃさっきの娘がパンかじってんだろう。
 いや、まぁ偶然だ。俺より先に教室を出たはいいけどパンを選んだりレジに並んだりレジ打ちのおばちゃんが戸惑っているうちに自販でコーヒー買っただけの俺が追い抜いただけの話だろう。どうせこのままなにもなく教室に戻って俺はただ椅子を引いてやればいいだけの話――、
「……あの」
 今日三度目の「……あの」(亜種含む)
 目線だけを彼女に向けて、
「……なに?」
「さっきの授業、寝てましたよね?」
 一体何を言い出すのかと思えば……。
「あぁ、わかんないから、寝た」
「なんでですか?」
「だから……さっきわかんないからって言って――」
「あの先生はかなり教えるの上手だと思いますけど?」
「でも俺にはわかんなかった」
「なら後で私が説明しましょうか?」
 ため息。
「どうしてさっき会ったばっかあんたにそこまでしてもらわなくちゃ――」
「浪人って、辛いよ?」
 一瞬、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。だが、その言葉からはたしかな重みが感じられた。
 浪人って、辛いよ……?
 ってことは、この娘も浪人? てか、逆に俺が現役生に見られてる?
「あ、ははははは、そうか、アンタも浪人か」
「え、『も』って……そっちも浪人?」
「俺なんて浪人そのものじゃん。まさか現役に見られてるなんて思いもしなかった」
「だ、だってほら、浪人ならもっとピリピリしてるっていうか、緊張感があるっていうか……」
 要するにそれは俺が寝ていたことに原因があるんだろう。
「それに、なんか見た瞬間『あ、この人うらやましい』って思ったから」
「変なこと言うなぁ。うらやましい? どこが」
「わかんないけど、この時期になると周りがみんな現役生に見えてくるせいなのかもしれない……」
「そいつはまた俺に負けず劣らずの疑心暗鬼っぷり……って、ちょっと待て」
 この時期になると……?
 ってことはこの時期を少なくとも二回は味わっている……?
「……二浪?」
「さ……三浪……」
 視線を落とし、手にした菓子パンを見つめながら答えた。
 三浪ってことは、今年もう二十一? み、見えねー……。
「もぅ笑わないでー」
「いやいやいや、これは俺自身に対する笑いだから。いやー、まさか三浪を現役と間違えてたなんて、俺も結構いっちゃってんだなぁ」
「でもひどいっ」
「けど三浪ってことは結構すごいとこ狙ってんですか?」
「いまさら敬語とか逆に嫌味ッ」
「……やっぱすごいとこ狙ってんの?」
「一応……医学部を……」
「そりゃすげぇ」
「身の程を知らずに三年も浪人してるけどね……」
「でもそこまでしてでもお医者さんになりたいわけでしょ? その時点ですごい」
「でも、今年でだめだったもう諦めようと思ってるんだ……」
 そういって、自分のコーヒーをすすった。そのときの表情がひどく悲しそうに見えた。
 だから、こんなくだらない提案をしたのかもしれない。まだ出会ったばかりの彼女に、夢を捨ててほしくなかったから。
「……じゃあこうしよう」
「え?」
「もし俺が大学に受かったら、アンタも医学部に受かること。逆にアンタが受かったら、俺は意地でも受かるってやるから。それと――」
 続けた。
「俺が大学に落ちたら、アンタは医者になる夢を諦めてもいい。でもアンタが受からなかったら、俺はどんな大学に受かってても行かない。どうだ? 少しはやる気出ただろう?」
 彼女はしばらくの間、紙コップを手で包んだままポカンとしていた。
「俺に、大学行かせてくれよ。だから、諦めんな」
 彼女は小さく笑った。
「アナタ、バカでしょう」
「勉強は出来ないけど、バカじゃない」
「なるほどね……」
 また少し俯いて、何かを考えているようだった。バカと勉強が出来ないの違いを考えていたのかもしれない。
 しかし俺は強引に話を進める。
「つーわけで、約束の乾杯」
「えー、なにそれ意味わかんない」
 彼女は声を出して笑った。
「何に乾杯するの?」
「とりあえず、次の授業で寝ないだろう未来の俺に」
「内容がちっちゃーい」
「小さいことからコツコツと、ってことでカンパーイ」
「もう二人とも飲んじゃってるけど、カンパーイ」
 二人はお互いのコップを交換すると、笑いながら一気に中身を空にした。

「つーか冷ェ! なんでこの寒いのにアイスなんだよ!」
「えー、たまには冷たいのも飲みたくなるじゃんー」
「アンタ勉強は出来るかもしんないけど絶対バカだろ!?」
「年上に向かってその口の利き方はないんじゃないかなぁ」
「こういうとこだけ年上面かっ」

 こうして、俺たちはよくわからない約束を結んだ。

「ほら、だからここの問題は――もう寝てる!?」

 こんなバカな先輩のために、俺も、少しはがんばらないとなぁ。

 

  意見等もらえたらきっと喜びます